日本では最も有名な国粋会が日本の歴史をどう塗り変えてきたのか?
最大暴力団組織に見る日本の歴史を紐解く。
1958年に結成された国粋会。同年7月には‘日本国粋会創立記念式典’が品川プリンスホテルにて開催された。
400人余りの右翼集団に加え、当時の防衛財務次官も出席している。
1960年には、安保反対の動きで押えきれなくなったデモなどの運動に対して、当時の首相岸信介は、警察、自衛隊以外に
右翼団体、暴力団体、宗教団体に動員を要請。日本国粋会1500人が警官補助警備力として配置されたのである。
その後、衝突、内部抗争を経て、1962年に日本国粋会を再結成。
国粋会はその後も度重なる解散、紛争、結成を経て、後に山口会に加入し、国粋会は、山口組の二次団体となった。
2007年、国粋会の会長、工藤は自宅で頭から血を流して死亡しているところを発見された。
工藤の喪明けも待たずに国粋会の新会長は決まった。その後組織の改編などを経ている。
日本最大勢力山口組と住吉会の抗争が東京ではかなり問題である。山口組系と称する国粋会は以前は住吉会側だったが。
そもそも住吉会系小林会の幹部が西麻布の路上で射殺されたことにより、山口組系の国粋会、太田会へ報復。
山口組(国粋会)と住吉会の抗争に発展するところが、双方の最高幹部が和解。しかし、同月国粋会会長工藤和義が
拳銃にて自宅で自殺しているのが発見された。
抗争が絶えなかったのだが、住吉会の幹部が殺された事件は国粋会が絡んでいたと言われている。
国粋会は山口組の傘下に入り、住吉会と東京の銀座で縄張り争いが勃発していた。
殺された幹部はこの縄張り争いの現場交渉の役割にあたっていたのだ。
国粋会は、関東で縄張りの範囲がかなり広かった。東京では、銀座、六本木、渋谷、原宿など大半が縄張りで、住吉会は
その上を借りていたのだ。地代支払いなども含めての縄張り争いが、国粋会との紛争に発展したのだろう。
国粋会の会長が拳銃自殺!?
2007年2月15日、東京台東区にある指定暴力団山口組国粋会の会長
工藤和義氏が、自宅にて頭から血を流して死んでいるのを組関係者の発見に発見された。
国粋会では、同月2月5日に、同じく指定暴力団住吉会の幹部が射殺された事件に関与しているのではないかと
警視庁はにらんでいる。
関係者によると和解条件として、国粋会工藤会長の引退が含まれていたと報道されているものもある。
また、内部関係者によると、国粋会内部では、以前から内紛が勃発しており、山口組の仲裁により
工藤会長には有利な条件になった、そして、山口組の傘下になった後も、国粋会内部での工藤会長に
対する反発が存在したというのだ。
工藤会長が自殺するには不自然な点も多いものの、国粋会の紛争はひとまず落ち着いたのだろうか。